織田信長は足利義昭を奉じて入京した。

織田信長足利義昭を奉じて入京した。

 

と書いてあったのですが、これはどうい...織田信長足利義昭を奉じて入京した。

 

と書いてあったのですが、これはどういう意味ですか?

 

 

 私が知っているのは「織田信長足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させた」ということです。

これよりも前の話のことですか?

 

 

教えて下さい。

よろしくお願いします。そもそも室町幕府13代将軍の足利義輝が松永弾正と三好3人衆に暗殺される所から

この話は始まります。

 

当時の室町幕府はその実権の多くを握っていた管領細川氏に牛耳られていましたが、

細川家家臣であった三好長慶が下克上で主家を滅ぼすと、長慶がそのあと

室町幕府の実権を持つようになります。

 

時の将軍、義輝は失墜した将軍家の再興を目指し、度々長慶に反発しましたが

その都度、敗退し幾度か京から追い出される事がありました。

 

その頃、三好家でものすごく勢いのあった武将が松永弾正久秀です。

彼は野心家で、いつか長慶を倒して、三好家を乗っ取る事を計画していました。

 

そして、1564年に三好長慶が亡くなります。

 

この機会を待っていた松永弾正が動き出します。

 

三好長慶の死後は長慶の子である三好義継が後を継ぎましたが、

松永弾正などのあやつり人形でした。

 

三好家の実質的リーダーとなり近畿で急速に力を付けた松永弾正を

将軍義輝は脅威に感じ、各地の有力大名に松永包囲網の形成を

画策しました。

 

しかしです、松永弾正とその一派である三好政康三好長逸

岩成友通の三好3人衆が御所を襲撃。義輝を殺してしまいました。

 

危機一髪、京を逃れたのが義輝の実弟である足利義昭です。

朽木峠を越え、越前朝倉氏を頼ります。

 

京では、松永弾正と三好3人衆が推す足利義栄が14代将軍に就任します。

が、この将軍は傀儡にすぎず、実権は松永と三好3人衆のものでした。

 

越前に居た義昭は、朝倉義景に対して再三松永一派を討ち、兄義輝の意志を

継ぎ、将軍家再興をさせるよう申し出ますが、義景は動こうとはしません。

朝倉は頼りにならないと、義昭は各地の大名に使いを送りますが、良い返事は

得られませんでした。

 

そのころ、桶狭間今川義元を討ち、美濃国も手にしていた尾張織田信長

所にも義昭の使いが着ました。その使いこそ、後に家来となる明智光秀です。

 

松永一派の京からの追放と自らを将軍になる為の手助けをして欲しいとの

義昭の願いを受け入れ、1568年、織田信長足利義昭と共に京へ軍勢を進めます。

 

途中、南近江の六角承禎が信長軍の進軍を阻みますが、六角氏の本拠である

観音寺城でこれを破ると、京都にいた松永弾正は信長に降参し、義昭は京都へ無事たどり着きました。

その後、義昭は正式に室町幕府第15代将軍に就任します。

 

これが、ご質問にありました「織田信長足利義昭を奉じて入京した」です。

長くなりましたが、ご参考となれば幸いです。